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月で「いま」をどう確かめるのか

アポロ計画で計算された経過時間の差が、月の共通時刻基準という課題につながる。離れた場所の時計が示す時刻をどう検証するのか。

宇宙に浮かぶ地球と月の前にそれぞれ腕時計があり、信号の矢印で結ばれている。上には時刻のずれを示す時計の記号がある。
地球と月の時計を共通の時刻基準で比較・検証する必要性を表した概念図。

1969年初め、欧州を訪問していた米国の宇宙飛行士フランク・ボーマンは、自分たちには残業代が支払われるべきだと冗談を言った。2か月ほど前、彼が船長を務めたアポロ8号は、人類で初めて月を周回して地球に帰還していた。飛行中に乗組員が経験した経過時間は、地球に残った人々より約300マイクロ秒長かったという計算があったからだ。

1マイクロ秒は100万分の1秒。ほんのわずかでも余計に歳を取ったのだから、残業代を請求しようというわけだ。

米誌『TIME』が紹介したこの冗談には、物理学的な根拠があった。NASAの依頼を受け、メリーランド大学の物理学者キャロル・アリーが相対性理論を用いて計算していた。宇宙船が高速で移動すると時間の進み方は遅くなる。一方、地球から離れて重力が弱まると逆の効果が生じる。アポロ8号では二つの効果を合わせた結果、乗組員が経験した経過時間は約300マイクロ秒長かったと推定された。1

同じ年の11月、月に着陸したアポロ12号の船長ピート・コンラッドには、NASAから支給されたオメガ・スピードマスターの腕時計があった。ぜんまいを巻いて動かす機械式時計だ。その腕時計は現在も米スミソニアン国立航空宇宙博物館に保存されている。2

黒文字盤、三つのインダイヤル、タキメーターベゼルを備えたオメガ・スピードマスターのビンテージ風イラスト。右下には小さな月着陸船がある。
アポロ12号船長ピート・コンラッドに支給されたオメガ・スピードマスターをモチーフにした編集用イラスト。収蔵品の実写でも相対論的な経過時間差の実測記録でもない。

1972年、NASAのジョン・ラヴェリーは、アポロ12号の実際の飛行経路を使って同様の計算を行った。宇宙船とともに移動する理想的な時計には、地球の基準時計より約570マイクロ秒多くの時間が経過したという結果だった。3

どちらも腕時計の表示を直接測った値ではない。地球を出発して帰還するまでの飛行全体について、相対性理論から計算した経過時間の差である。

半世紀以上が過ぎた2026年10月15日、国際的な計量標準を決める国際度量衡総会(CGPM)は、月の共通の時系と地球の協定世界時との関係を扱う決議を採択した。4

いま問われているのは、月へ旅した宇宙飛行士が経験した経過時間の差だけではない。複数の国の着陸機や探査車が月の離れた場所で活動するとき、それぞれの時計が示す時刻をどう合わせ、どう検証するのか。

地球の標準時も一台の時計で決まらない

私たちが使う協定世界時(UTC)は、地球のどこかに置かれた一台の原子時計が示す時刻ではない。

国際度量衡局(BIPM)は、世界各国の原子時計の測定データと時計どうしの比較結果を集め、国際原子時(TAI)を算出している。TAIは原子時計をもとに連続して進む時系だ。そこに地球の自転に基づく時刻とのずれを抑えるためのうるう秒を反映して、UTCを作る。5

データの収集と計算には時間がかかるため、正式なUTCの計算結果は事後に公表される。それでも私たちがその場で現在の時刻を知ることができるのは、各国の標準時機関が原子時計を運用し、UTCに合わせた時刻をリアルタイムで提供しているためだ。

各機関が実際に維持するこの時系をUTC(k)と呼ぶ。括弧内のkは機関を区別する記号である。

各機関の時計にはわずかな違いがある。BIPMは毎月『Circular T』を公表し、UTCとそれぞれのUTC(k)との時刻のずれを示す。各機関は、その結果から国際基準との差を確かめ、時計の運用に反映させる。

世界中で共通の時刻基準を使えるのは、別々の時計のずれを測り、確認できる仕組みがあるからだ。

月でも同じような比較が必要になる。しかも月では、時計を置く場所そのものが問題になる。

月の時計はなぜ地球より速く進むのか

2024年、ニール・アシュビーとビジュナート・パトラの研究チームは、地球と月の重力や運動を考慮して、両天体の時計の進み方を計算した。6

地球と月でそれぞれ重力を基に定めた基準面に理想的な時計を置くと、月の時計には地球の時計より1日あたり平均約56マイクロ秒多くの経過時間が積み重なるという結果だった。

日常生活では意識できないほど小さい。しかし、電波が届くまでの時間から距離を求める測位システムにとっては重要だ。光は1マイクロ秒でおよそ300メートル進む。位置を正確に求めるには、時計が示す時刻の微小な誤差まで考慮する必要がある。

時計の進み方が異なるのは相対性理論による。重力が強い場所では時間が遅く進む傾向があり、時計の運動速度も時間の進み方に影響する。地球と月の時計を比較するには、両方の効果を計算しなければならない。

月面でも、時計の場所によって進み方に違いが生じる。山やクレーターがあり、重力の影響が地域ごとにわずかに異なるからだ。月面の時計と月を周回する衛星の時計も、受ける重力と運動条件が違う。

時計が示す時刻を正しく比較するには、時計自体の精度に加えて、どこにあり、どのように動いているかを知る必要がある。

地球と月の周囲に重力を示す輪と運動の矢印がある。下の二つの目盛りは、月の理想時計に1日平均約56マイクロ秒多くの経過時間が蓄積することを示す。
重力と運動を合わせて計算すると、月の基準面の理想時計には地球の基準面の時計より1日平均約56マイクロ秒多くの経過時間が蓄積する。概念図。

時計が刻む時間と共通の時刻

実際の時計は、自分がたどった経路に沿ってどれだけ時間が経過したかを測る。物理学ではこれを固有時という。アポロの宇宙飛行士たちについても、それぞれの経路に沿った経過時間を計算した。

月の離れた場所で起きる出来事を比較するには、共通の規則でそれぞれに時刻を割り当てる必要がある。そのために定義するのが座標時だ。

2024年、国際天文学連合(IAU)は、月とその周辺の位置や時刻を一貫して記録できるよう、月中心の基準座標系と月座標時(TCL)を定める決議を採択した。7

TCLは、月とその周辺で起きた出来事に、共通の規則で時刻を割り当てるための時系である。

1メートルの定義が決まっても、正確な物差しが自然にできるわけではない。物差しを作り、目盛りを確かめる必要がある。月の時系と原子時計の関係も似ている。

月面の原子時計が測った固有時をTCLで表される時刻に対応づけるには、時計の位置や運動による影響を計算する。

そこで別の選択肢が生まれる。月の時計に補正が必要なら、最初から月面の時計と平均的な進む速さが等しい時系を採用すればよいのではないか。

時間の目盛りを変えると座標計算にも影響する

2026年、アドリアン・ブルゴワンらの研究チームは、月の共通時系について三つの方法を比較した。8

一つ目はTCLをそのまま使う方法。二つ目は月面の基準時計と平均的な進む速さが一致するよう時系を調整する方法。三つ目は、地球の天文計算で用いる地球時(TT)と平均的な速さを合わせる方法だ。

月面の時計に時系を合わせれば現地で便利になる点がある。地球の時系と速さを合わせる方法にも、特定の計算で利点がある。

問題は、時間の目盛りを変えるときに空間座標も整合させる必要があることだ。

相対性理論に基づく座標系では、時間と空間が一体として定義される。時間座標の尺度を一定の比率で変えるなら、位置や距離を表す座標値、重力計算に用いるパラメータも整合するよう調整する。異なる規約を混ぜて計算することはできない。

研究チームは、TCLをそのまま使えばこうした追加調整を避けられるとして、より単純で一貫した選択肢と評価した。後続研究でも同じ方向を提案している。

TCLを採用しても、実際の月の時計が刻む固有時とTCLの時刻との対応関係を求める必要がある。

離れた時計の時刻をどう比べるか

月面に高精度の原子時計を一台設置したとしよう。位置は分かっていて、重力と運動による補正も計算できている。

この時計が示す時刻が国際基準にどれほど合っているかを知るには、別の時計と信号をやり取りして比較する必要がある。

ブルゴワンらは、地球のUTC(k)と月の時計を結んで時刻のずれを調べる方法を提案した。8

地球の時計が送信時刻を記録し、月の時計が受信時刻を記録する場面を考えてみよう。二つの記録された時刻の差には、電波が地球から月まで届くのに要した時間も含まれる。その伝搬時間を補正することで、時計どうしの時刻のずれを求められる。

そのためには、信号が通った経路や地球と月の位置、送受信装置が生む遅延を正確に計算しなければならない。

そこで使うのが天体暦だ。地球や月などの天体が、いつどこにあるかを計算してまとめた資料である。位置の不確かさや信号の伝搬時間の推定精度が時刻比較に影響する。

地球側の基準時計についても差を確認する。後からBIPMが公表するUTCとUTC(k)の時刻のずれを反映すると、月の時計の記録を国際基準に結び付けられる。

こうした比較のつながりと、その不確かさを確認できる性質を、計量学ではトレーサビリティという。

この仕組みがあれば、月で複数の機関が独自に時計を運用しても、それぞれの時刻が共通基準からどれほどずれているかを比較できる。

研究で提案された方法を実用化するには、時計の性能、位置情報、信号を送受信する装置の遅延を実際の運用条件で検証する必要がある。

送受信時刻の記録差を、青い信号伝搬時間とオレンジ色の時計の時刻のずれに分けた棒図。Correctionの矢印の下にはオレンジ色の部分だけが残る。
送信・受信で記録された時刻の差には、信号の伝搬時間と時計どうしの時刻のずれが含まれる。伝搬時間を補正してずれを推定する概念図で、棒の長さは実測比率ではない。

月の共通時刻基準はどこまで実現したか

月で正確な時刻と位置を提供するための技術は、すでに開発が進んでいる。

2025年3月、NASAとイタリア宇宙機関(ASI)が共同開発した月の衛星測位信号受信実験装置ルグレ(LuGRE)は、月面で地球のGPSと欧州のガリレオ衛星測位信号を受信し、位置を計算することに成功した。9

地球の衛星測位信号を月でも利用できることを示した実験だった。

欧州宇宙機関(ESA)は2026年10月、月面に原子時計と位置の基準施設を設ける「NovaMoon」計画を発表した。10 月でより正確な時刻と位置の情報を提供するための準備が進んでいる。

運用時には地球との通信が途絶えた場合にも備えなければならない。

原子時計は地球から信号を受け取れなくても時間を刻み続ける。だが、別の時計と長く比較できないと、時計の小さな不安定さや環境変化によって共通基準に対する時刻のずれの不確かさが大きくなる。

月探査機ごとに必要な時刻精度や自律運用能力も異なる。初期の探査なら、地球からの時刻情報と必要な補正を利用できる。複数の国の探査車や着陸機が観測データや共通の測位サービスを使うほど、時刻を比較・検証する仕組みが重要になる。

フランク・ボーマンがアポロ8号で冗談にしたのは、自分に数マイクロ秒多くの時間が経過したという話だった。これから人類に求められるのは、そうした小さな差の計算に加え、月の離れた場所にある時計が共通基準とどれほど一致しているかを確かめることだ。

月で「いま」を確かめるには、異なる時計が示す時刻を共通の基準で比較し、検証できなければならない。


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注・出典

1. 『TIME』「Relativity: A Matter of Overtime」(1969年3月7日)。NASA Astronautics and Aeronautics, 1969、3月6日の記録。メリーランド大学の物理学者キャロル・アリーの相対論計算とボーマンの残業代の冗談を紹介する。NASAの年表は『TIME』を引用している。

冗談の続き: ボーマンとジム・ラヴェルはアポロ8号以前にジェミニ計画で地球を周回していた。『TIME』が伝えたアリーの計算では、以前の飛行も含めるとボーマンの経過時間は地球に残っていた場合より約100マイクロ秒、ラヴェルは約200マイクロ秒少ない。残業代を請求できるという冗談が当てはまるのは、初飛行だったウィリアム・アンダースだけ、という落ちがあった。いずれも計算値である。

2. スミソニアン国立航空宇宙博物館「Chronograph, Conrad, Apollo 12」。NASAが1969年のアポロ12号船長ピート・コンラッドに支給したオメガ・スピードマスターの収蔵記録。

3. John E. Lavery(1972)、Relativistic Time Corrections for Apollo 12 and Apollo 13、NASA Technical Note D-6681。NASA報告書PDF、NASA書誌ページ。PDFの要約には地球・月・太陽の重力を考慮した計算値として570.3±0.3マイクロ秒、NASA書誌ページの要約には地球・月のニュートン重力ポテンシャルによる計算値として560±1.5マイクロ秒が示されている。計算条件の説明は異なるが、公表されたNASA資料で数値差を説明する独立した解説は確認されていない。太陽の重力を省き飛行経路を単純化した別の近似検算でも、蓄積する経過時間の差は約**+560マイクロ秒**だった。これはNASAの計算の完全な再現ではない。本文はPDFの数値を採用した。

4. 国際度量衡局(BIPM)、第28回国際度量衡総会(CGPM)決議6、On the definition of an international lunar reference time scale and its traceability to UTC、2026年10月15日採択。採択決議の公式一覧、決議6。月の国際基準時系の定義とUTCへのトレーサビリティーを扱う。採択は、月の共通時刻サービスがすでに運用されていることを意味しない。 今回は最終決議の実施条項すべてを独立して逐条照合していないため、具体的な実装方式まで確定したとは扱わない。

5. BIPM「Coordinated Universal Time (UTC)」および「Circular T」。BIPMは原子時計のデータと時刻比較から国際原子時(TAI)を算出し、2026年時点の協定世界時(UTC)にはうるう秒制度が適用される。TAIとUTCには整数秒の差があり、うるう秒調整のない期間は同じ速さで進む。UTC(k)は各標準時機関がリアルタイムで維持する。第28回CGPM決議5(2026年)により、連続UTCは2027年5月20日から適用され、|UT1−UTC|の許容差の上限は**3,600秒(1時間)**となる。これは上限であり、施行日に実際の差が1時間になるという意味ではない。

6. Neil Ashby / Bijunath R. Patla(2024)「A Relativistic Framework to Estimate Clock Rates on the Moon」、『The Astronomical Journal』168、112。地球のジオイドと月のセレノイドに置かれた理想時計を比較し、月の時計には一日平均で約56.02マイクロ秒多くの経過時間が蓄積すると計算した。特定の瞬間の時刻のずれや実機による固定的な誤差の測定値ではない。光が1マイクロ秒に進む距離は、実際の測位誤差と一対一では対応しない。

7. 国際天文学連合(IAU)、2024年決議II・III。月中心の基準座標系(LCRS)と月座標時(TCL)を定義し、国際的に調整された月の時系の必要性を示した。決議一覧。

8. Adrien Bourgoin / Pascale Defraigne / Frédéric Meynadier(2026)「Lunar reference timescale」、『Metrologia』63、015003。時系の選択と空間座標・重力パラメータの整合性、UTCとの時刻比較を分析する。TCLと地球時TTの一日あたり約58.7マイクロ秒の差は、[6]の地球・月の基準面の時計間で約56.02マイクロ秒の差とは比較条件が異なる。後続研究「Lunar Time」参照。

9. NASA「NASA Successfully Acquires GPS Signals on Moon」(2025年3月4日)。LuGREが月で地球の衛星測位信号を受信し、位置を計算した実証である。

10. ESA「Introducing NovaMoon」(2026年10月12日)。月面の原子時計と時刻・位置の基準施設を構築する計画の発表。

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